pickup!

王女一向が旅に出た。
まるで家出のように、着の身着のままで。
不必要に国民に知られてはいけないという、ブライの配慮から、アリーナとブライをサラン近郊にある、クリフトの実家であるバーンスタイン家に留め、クリフトは単身サランの街へ旅支度の調達へ出かけた。

ブライがバーンスタイン家当主であるバーンスタイン公に事情を説明している間、アリーナは豪奢な客間に通され、お茶とお菓子でもてなされていた。クリフトは確かに養子ではあるものの、バーンスタイン公が、孤児院暮らしだった幼い頃のクリフトの才を見出してサントハイムに連れ帰り、厳格な教育を施してきた子であり、客間のあちらこちらに、今までクリフトが歩んできた道の痕跡がアリーナには見えた。

神学校を主席で卒業した時の写真は無愛想で、笑顔ひとつ見せていなかったが、無邪気に笑っている、幼い頃のクリフトの写真が一枚飾られていたのを、アリーナは手に取った。

「どうして、笑わなくなったのかなぁ……」

アリーナは写真立てを置いた。普通ならば、卒業まで何年も何年も掛かるところを、彼はたったの2年でやってのけた。信心深さだけが学問において、一番になれる要素ではないことくらいはアリーナだって知っている。素晴らしい成果もあげ、卒業すれば即座に王宮勤めの神官への道があり、実際に駆け上がってきた。義理の父が通ってきた道を、猛スピードで追いつこうとするクリフトには、他人には言えぬ重圧があるのだろうか。

それは、実際の父も母も分からぬ養子だからなのか。それとも、次期大臣ともてはやされ、アリーナの婿の第一候補に挙がっているからだろうか。兄のように接し、親友とまで思っていたアリーナにもわからない、クリフトの別の顔。

「私は、クリフトと一緒に居られれば。それだけでいいんだけどな」

それが、どんなクリフトでも構わない。
アリーナは、ふぅとため息をついた。
一方、クリフトの方はというと。

水筒や保存食、薬草や衛生用品、簡素な着替えなど、旅に必要な最低限の買い出しを済ませていた。自分が纏っている神官の制服も外出先では逆に悪目立ちしてしまうだろうから、実家にある質素な私服も持参しようと家路へと向かおうとしていた。中継地点であるテンペの村までは、細い山道の街道を通らなくてはならない。夜は獰猛な魔物も出るという報告は上がっているし、この旅では鬼門のひとつ。なんとしても姫さまをお守りしなければならないと、身の引き締まる思いが続く。クリフトはシワひとつない制服の襟を、改めて正した。

そのとき。
改修中だった街の商店の足場が一部崩れ、ガタガタという大きい音と小さな悲鳴が止んだかと思うと、ちょうど真下でリンゴを売る商いを行っていた若い女性が巻き込まれてしまった。クリフトは遠巻きに見る野次馬たちをかき分け、女性の元へ駆け寄った。見ると、頭と脚に軽いものの怪我をしているようだった。荷物を一度砂埃の立つ地面に置き、女性の元へ跪くと、彼女はまた小さな悲鳴を挙げた。

「ひっ。ク、クリフトさま!」
「とりあえず止血をしなければ。さあ、傷口をこちらに見せてください。不幸中の幸いでしたね、痛いのはこの二ヶ所だけですか? 他に痛いところがあれば言ってください」
「お待ちください、クリフトさま! 私は卑しい、ただの民でございます。次期公爵さまのクリフトさまが、私のような者の為に膝をつくなど……!」

クリフトは唇の端を少しだけ上げ、少しだけ微笑んだ顔で止血の魔法を唱えた。若い女性の傷はどんどん塞がっていく。

「……私は、誰ひとりとして卑しい身分などと思ったことはありません。考えもよらなかった。それに私が次期公爵であるならば、なお余計に、ここで傷を負った貴方に手を差し伸べなければ、一生ものの後悔をするでしょう。我が王、サントハイム王や姫さまも同じ考えでいらっしゃいますし、民の方々の健康と日々の繁栄あっての我々であることを、どうか覚えていてください。神の御加護があらんことを」
「あ、ありがとうございます、ありがとう、ございます……!」

止血の魔法を施され、ぽうっと頬を染めた女性は何度も頭を下げるのを、クリフトは制した。

「そう何度もお礼を言われては、照れてしまいますのでどうかその辺りで……。止血は施しましたが、然るべき医師にも必ず診てもらってくださいね。それでは、私は急ぐので失礼します。どうかお大事に」

遠ざかるクリフトを他所に、周りの野次馬の中の女性陣がヒソヒソと話をする。

『素敵な方ね……』
『ねえ、見た? 迷うことなく膝を土につけたところなんて、まるで貴族さまじゃないみたい』
『私、ファンクラブに入ってるの』
『本当? 私も入ろうかしら。まるで舞台俳優のようにカッコいいのに、気さくで気取ったところもなくて、なにより謙虚でいらっしゃるし』
『やだ、舞台俳優よりカッコいいわ。ファンクラブの会員だって、すごく多いのよ。生で拝見出来ただけでも嬉しいのに、あんな素敵な姿を見てしまったら……余計にファンになっちゃう』
『ねー』

クリフトはそのままバーンスタイン邸に戻り、客間にいたアリーナに戻ってきた旨を報告してから、すぐにブライと義父の元に向かった。

「戻ってまいりました。これで明日からでも旅を始められます」
「ご苦労だったな、クリフト。いま、そなたのお義父上にワシが不在の時の外交のことなどを話しておったところだ」
「まあ、座れ」

義父に薦められるがままに、クリフトは末席に腰をかけた。

「いいか、クリフト。常日頃からお前に伝えていることだが、くれぐれもローゼンバーム王と王女の尊厳を損なわぬよう、心得ることだ。しいてはそれが、我がバーンスタイン家の存続に繋がることでもあるし、今までもこれからもその忠誠は変わらん」
「はい」
「聞けば」

クリフトの義父、バーンスタイン公は片眉を少しあげた。

「此度の旅のとも連れ、映えある姫さまの護衛役。王たっての御命令だそうじゃないか。ただでさえ、王からは姫さまの婿となるよう言われているのに、こうなるとお前と王女との間をとやかく噂する輩も出てこよう。くれぐれも姫さまの尊厳を傷つけ、王の信頼を裏切るような真似は避けるように」
「はい、心得ております。此度の旅で姫さまに意中の方が見つかるやもしれません。恥のないよう、強く心がけます」
「あー。いや、クリフト……。まあ、いい」

ブライが、アリーナの意中の相手がクリフトそのものだと口を滑らせそうになったのを、迂闊だったとグッと堪えた。

「私はブライ老師の元で、修行させて頂くつもりです。若輩の未熟者ですが、なにとぞよろしくお願いいたします」
「なに、その辺の若い者よりはずっといい働きをしてくれるだろう。期待させてもらうし、その旨もお義父上に話をさせてもらった。御子息を預からせていただく、と」
「ありがとうございます」

短い会見を経て、クリフトはもう一度客間のアリーナの元へ向かった。アリーナは待ちくたびれたという風に椅子に腰をかけ、足をぶらぶらとさせていたが、クリフトが客間に入るや否や、足をスッと揃えてクリフトを見た。

「準備は済んだ? 今日から旅は出来るの?」
「あらかたの準備は済みましたが、これから中継地点のテンペの村へ行くには、細く険しい山道を通らなくてはなりません。昼を過ぎての出発は逆に危険です。明日の朝にしなければ」「明日の朝? 武道会が羽を生やして飛んでいきそう。大丈夫かしら」
「日程的には十二分に余裕がありますよ」

アリーナは気もはやり、それどころではない、と言いたげだった。

「私は道中も強くならなきゃいけないの。モタモタしていられないわ。そうだ、クリフト。どうせ明日の出発なのでしょう? 手合わせの相手をしてよ」
「わかりました、姫さまは元気だなあ」
「元気じゃなきゃ武道会に出たいなんて思わないもの。強くならなきゃね」

ふん、と興奮気味に鼻を鳴らしたアリーナが、クリフトの制服の裾を見た。

「あら? 汚れてる。どうかしたの?」

クリフトは、汚れてますか? 特になにもありませんよ。と薄く笑い、練習用の棒を手に取った。

「さて、姫さま。私は制服が破れないように、着替えてきた方が良いですかね?」
「ぜひ、そうして?」
「元気だなあ」

今度のクリフトは真顔だった。

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