pickup!

その日は風雨が窓を叩くほどの雨模様だった。
トルネコの船に用意された、個々の個室。

街から移動することになり、クリフトはいつも持ち歩いている聖書を、個室に備え付けられた卓の上に置き、暫くの間、聖書のタイトルを見つめていたかと思うと、ふと、くるりと踵を返して、また別の荷物を取りに街の宿に戻って行った。

そこに現れたのは、彼と同じように旅の準備を整えていたアルディだった。

「おーい、クリフト。借りてた本なんだけど……。あ、いねーのか。……どうしようかな、これ」

ぼりぼり、と頭を掻きながらアルディが、整頓されていつつも、本と資料と書類と薬品類が所狭しと並ぶクリフトの部屋に入り「ベッドの上に置いたら……今度は服入ったカバンが置けねーよなあ」と言いながら見渡すと、ふと聖書が置かれた卓が目に入った。

アルディはクリフトがいつも仕事柄、聖書を持ち歩いていることはよく知っている。ここなら借りた本を、数冊積んでも大丈夫だろう。そう考えた彼は、聖書を持ち上げ、その下に借りた本を置こうとした。

そのときだ。
クリフトが愛用している聖書から、一枚の写真がひらりと舞い落ちた。彼に悪気があったわけではない。もちろん彼は拾い上げ、なんの気なしに写真を見た。

「アリーナじゃん」

まだ幼い顔立ちをしている王女アリーナの横顔を、何処か近くから隠し撮ったであろう写真。持ち主は事あるごとに何度も繰り返し、その写真を見ているのか、丁寧に扱われているものの、その用紙の縁は若干丸くなり、細かく擦れた跡もあるようだった。

写真の中のアリーナは何も穢れも知らなそうな、無垢な顔で笑っている。もちろん、いまでもアリーナは、いつも明るく元気に振る舞い、笑顔も欠かさない。だが、ほんの少しだけ、今の雰囲気とは違う感じがした。

「この頃は、自分の家っつーか、城の人間ごと丸々、魔物に取られるなんて思わなかっただろうしな……」

そう呟くと、アルディにも「同情だけでは治らぬ感情」がにわかに沸き起こると同時に、ようやく口から出た言葉は「大変だな、いまこんな状況で笑うってのも」という言葉だった。

アルディが、自分の部屋で聖書と写真を持って佇んでいるのを見かけたクリフトは、いつもより鋭い声で「そこで何してる」とアルディに問いかけた。

「借りてた本返そうとしただけだよ。この卓に置こうとしたら、聖書落としちまって、んで、なんか……。この写真も出てきちまって…。なんか、ごめん」
「ああ……。それか」

クリフトは聖書と写真を受け取り、写真を見つめていた。ばち、ばちと雨が窓に叩きつけられる音だけが、部屋の中に響いていた。

「あの……」
「なんだよ」
「いや…。変なこと聞いちまったらごめん。先謝っとくけど、その写真……アリーナだよな? 変な意味で聞くんじゃないんだ。なんていうか、お前とアリーナの仲だったらさ、こんなコソコソ物陰から撮ったような写真じゃなくて、もっと……」
「ちゃんとしたものを、撮れるだろうって?」

アルディは、ああ、うん、それ。と言い、そのまま、もぞりと黙ってしまった。

「この写真は、私が撮ったものじゃない。もちろん姫さまが誰かに撮らせるとも思えない。正真正銘、ただの隠し撮り写真だ」
「なんでお前が持ってんだ」
「挟まっていたんだ。ある日、突然」

そう言いながら、クリフトは聖書と写真を一旦ベッドの上に丁寧に置き、普段着が詰まったカバンを開け、タンスに仕舞い始めた。

「いや、そういうもんって、降って湧くもんじゃねーだろ……。仮にも王女さまの隠し撮りなんて、そうそう出来るわけねーだろうし」
「そうだろうな」

クリフトは淡々と質問そのものに応えてはいるものの、アルディが本当に聞かんとしていることには、一切応えようともせず、また、目もくれずに片付けを進めていく。

「……たぶん、だけれど」

俯き、タンスの引き出しに目をやりながら、クリフトはボソリと呟いた。

「誰かの嫌がらせだ」
「嫌がらせ?」
「……私が、サントハイム王国、王室抱えの神官として入ったのは知っての通りだけれど、いかんせん最年少だ。たとえ、神学校で首席を取ろうが、その前のエンドールへの留学で高成績を収めていようが、義父の七光り、姫さまからの寵愛ゆえだと揶揄する声や、いわゆるやっかみであろう感情から来る嫌がらせは、少なくなかった」

クリフトは、服を直す手を一旦止め、今度は視線を緑の制服にやりながら、ポツリポツリと続けた。

「この聖書に、このような写真を挟めるような立場にいた皆が、神の教えを学び、それを実践する立場にあろうとも、やはり見たいものだけを見て、信じたいものを信じようとしていたからだ。それが真実か不真実であるかは関係ない。ゆえに、真実を見通す力を求められ、そして私は上に立った。立てた。それが事実であり、揺るぎなかった真実だと思いたい」
「嫉妬…か?」
「人に望まれ、人に目標とされる。そういう羨望ならまだしも、嫉妬を甘く見てはいけないと私は考えていて。私があの立場に立ったお陰で、髀肉を喞つ思いになった同僚、もしくは部下が最低一人でもいる、ということなんだよ。私さえいなければ、自分の実力を、王や義父に示す機会があるものをーーーと。そのように思われるのなら、私は神官として半人前だ。真似され、目指されるようになって、ようやく一人前」

そう言うクリフトの表情は、淡々としていた。

「私は確かに上に立ち、今の立場にいる。これは裏を返せば、沢山の誰かを追い抜き、或いは踏み台にし、蹴散らし、蹴落としてきた結果に過ぎない」
「お前が出来ることと、結果的に蹴散らされたやつのことは関係ないじゃん」

クリフトは、フッと笑った。

「上に立つことは、甘い汁ばかり吸ったものには務まらない。私は上に立つものだ、だから、この写真を挟んだ者に対する怒りなどは、なにもない。それに、この写真は私への深い教戒の一枚なんだ。どのような苦難の道にあろうとも、自分の信じる道を進み、考えることをやめずに、更新し続けること。そして、姫さまを守り抜くこと。ーーー忘れるな、といつも問いかけてくる。答えはあるようで、未だ道半ば」

それにーーー挟んだであろう者すら、連れ去られてしまってね。と彼は続けた。

「私が、姫さまのご寵愛を受け、特別扱いをされている、と勘違いしたのだろう。実際、公爵家の長男。ゆくゆくは姫さまの婿にという噂話は絶えなかった。姫さまの御心が何処にあるかも知りもしない連中が寄ってたかって、外野から何を言っても無駄なこと」

アルディは、アリーナの気持ちを見る努力をしてやれーーーと言いかけて止めた。

「姫さまの御心は姫さまのみのもの。私がとやかく言うことや、出来ることはなにもないよ。せいぜい腕を磨き、姫さまを守り抜くくらいしか、今の私には出来ない。忘れるな。と、この写真は道に迷いそうな時にいつも教えてくれる。だから、大切な写真だよ、それに、この頃のように何の憂いのない笑顔を、微力ながらでも取り戻して差し上げたいと、考えるじゃないか」

アルディは、アリーナの気持ちは痛いほど知っている。気付いていないどころか、目を背けているのはクリフトだけだ。アリーナは、あの小さな身体に詰め込んだ不安ごと、受け止めてくれ、助けてくれ、側に寄り添い、時には涙を流させてくれと、声にならぬ声でクリフトに訴えかけているのに。

クリフトは、聖書の一番後ろのページに写真を大事に挟み込み、パタンと閉じた。

クリフトに足りないものは、本当は優しいくせに周りを、問答無用で踏みつけてきてしまったがゆえの痛み。そこから生じた自己評価の低さなのかも知れない。それに、元来の女心への機微の足りなさ、察しの悪さも相まって、見つめるべきアリーナの内面にまで踏み込めていないのだ。

かといって、アルディになす術は無い。
たとえ、クリフトの親友であっても、こればかりはクリフトが自分で乗り越え、アリーナの目線に立つしか無いのだろう。

ふと、クリフトがアルディに問いかけた。

「貸した本だけど、面白かっただろ?」
「……ああ、うん。すげーな。西の方じゃ大天使の扱いでも、東の方じゃ堕天使の扱いになっているとか。なんか、そういう話がボロボロと。伝承の仕方や、地域や生活によって違うんかね」
「見方変えればなんとやら」
「西じゃ神の教えに忠実な大天使だったけれども、東じゃ神の教えに忠実すぎて、殺戮を繰り返した挙句、悪魔になったとか」
「どの話が正しいのか。私も分からなくなってくるときがあるな」

ケラケラと楽しそうに話すクリフトに、アルディは一言だけ、たった一言だけ、余計なことを言った。

「アリーナにとって、お前はなんなんだろうな」

クリフトは万物の謎を目の前にし、知的好奇心に溢れてしまった某天使が、ふと浮かべるような顔で笑った。

「分からない。でも多分、決めつけは良くないのだろうな。姫さまも含めて、女性なんて永遠の謎。私にはサッパリ理解出来ない。猫の目のように喜怒哀楽が変わり、論ずれば、スルリと逃げてしまう。来世は酒場のジゴロにでもなろうかな、そうすれば完全に理解出来なくても、理解したフリくらいは出来るようになるかもしれない。ついでに甘い言葉や、女性を不快にさせない態度のひとつも、覚えられるかもしれないし」
「お前が酒場のジゴロ? 食ってけねーから仕事にならんよ」
「お前ならどうなんだよ、アルディ」
「毎晩、両手に花と行きたいところだけど、俺も仕事として成り立たんと思うよ。わかんねーよ、女のどこ褒めたら喜ぶとか、何が地雷だとか」
「そうだよな、わからない」

……そして、聖書は卓の上にクリフトの手に寄って元通りに戻された。アリーナの無垢な笑顔が写った写真は、今も挟まっている。

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