pickup!

クリフトが倒れた時、彼らは砂漠上にいた。
彼らの身体ほどある砂蠍が大きな尾を上げ、まさにアリーナの喉に針を刺そうとしていた時、クリフトに異変が起こった。

彼はその呪文を知ってはいた。
生死を操る禁忌だということも、知っていた。
だから、興味本位から途中の言葉までは自力で調べたものの、最後の言葉までは知らないようにしていたし、知る由もなかった。何故ならば、ゴッドサイドの本殿の奥深く、厳重な警戒の元、その呪文書が眠っていたからだ。ならば、何故彼はその魔法を唱えられたのか。何故、砂蠍の血液を細胞レベルから凍りつかせ、凝固させ、即時に死にいたらしめたのか。彼は知る由もない。学んだことすらないからだ、学んだことといえば、触れてはならぬ領域であるということだけ。

そして、彼はそれきり意識を失った。
蠍に怯えて震えたアリーナを、守るように抱きしめたまま。知る由もない言葉は、一体どこから。倒れた彼はずっと夢を見ていた。真っ暗な空間の中で、自分と向き合う夢だ。長い脚を組み、実に愉快そうに自分を眺める自分は、聞きたくもないことをペラペラと話しかけてくるのだ。

『知っているから、唱えられたのだよ』
「ザキの魔法なんて、私は知らない」
『知っているだろう?』

クリフトはさすがに腹が立ってきた。

「自分と押し問答をするつもりはない。知らないが知っていたから唱えられた。どんなに不可能でも目の当たりにしてしまった以上、それが真実だ」

しかし、もう一人のクリフトは愉快そうな顔を一切崩さずに語り掛けてくる。

『何故なのかを考えてみよう。答えは自ずと出てくるはずだ、美しい数式のように』

目の前のクリフトは脚を組み換え、にっこりと嗤った。

『私には父も母もいないが、無から生命が生まれることはないだろう。では父と母は何者なのか。魔族ならザキは本能的に使える』

『では、仮に父も母も魔族だとしよう。ならば、何故ゴッドサイドなどという彼らが近づきたくも無い場所の近くで産まれ、神学を学んでいる最中に苦しまなかったのか』

『魔族が元々神であるということは知っているだろう? そんなのは神学の基本教養だ。第一世代を神とすると、第二世代は魔族、第三世代が人間。神が作った泥人形が、人間だよ。そこまでは、神学の教科書に載っている。ではもし、魔族たちがこの世界を人間から奪おうとする場合、力ある者を魔族に昇格させようとするのではないかな? そう、なにかの……魔器を使って。もしくは、子供を作る。優れた人間となら魔族との子供も産まれよう。時間はかかるが、そちらの方がより確実ではないか』

そして、クリフトの目の前にいるもう一人のクリフトはニヤリと嗤った。

『成り損ないの魔族が昇格を果たそうとすれば、神になるどころか魔族とも違う、醜い成れの果ての化け物に成り下がる。そもそも魔族が、神になろうとするときはどんなときか。この世に絶望し、作り替えたい時。もしくは神と神とで戦争を起こしたいとき、ではないだろうか。……しかし、私は化け物ではない』

クリフトは、口を開くのもいっぱいいっぱいだった。

「違う。私は常にサントハイムの神官として王や姫さまにお支えしてきた。私は、人間だ」

あはははははは、と愉しそうな嗤い声が暗闇から聞こえてくる。

『違うから、この会話は成り立っているんじゃないか。口では幾らでも人間だと言えよう。今までの人生の話だって間違いではない。しかし、私の言っていることは間違っているか? 生物を細胞レベルから改変し、一度沸騰させ、そして凍らせ命を奪うなんて、良識ある人間とやらが最も忌み嫌いそうなものだよ。しかし、目的の為には効率的だろう?』
「私はそんな効率の為に、命を奪ったのではない! あれは姫さまの命を奪おうとしたのだ!」
『姫さまをお救いする為ならば。この身に流れるのが魔族の血であろうとも、惜しげもなく使い、捧げ、本能で動く。サントハイムの為ならば、神の教えのためならば。どちらにせよ、人間と魔族の子なら出来損ないの成り損ない。どちらでもない。矛盾の極みだよ、私"たち"はね』
「もうなんでもいい。……使命を果たせるならば」

そうかな、ともう一人のクリフトは首を傾げた。

『隣人への愛を説き、神の教えを説き、時には乞うてきた。与え、支え、捧げるばかり。私自身が誰かに真に愛されたことは?』
「愛情? 私にそんな感情は必要ない!」
『その言葉、神に誓えるか? 本当は何も知らない癖によく知ったかぶり出来るな、本当は何も出来ない癖によく人を護った気になれるな。私には理解しかねる。矛盾の極み、虚構の塊、独り善がりのクリフト殿。少しは考えた方がいいんじゃないか?』

 

ガチャンと大きな音がしたあとは、クリフトはずっと闇の中に閉じ込められ、そしてそのままずっと無音だった。
彼に次にきた衝撃は、口の中に広がる強烈な苦さだった。思わず飛び起きたら、目の前に泥だらけで傷だらけのアリーナの姿があった。
いけない、と彼は瞬時に思った。
玉に傷がついたように感じた。

まだおぼつかない腕を伸ばし、手のひらでアリーナの頬を触りながら、止血の魔法をよろよろと唱えるうちに、アリーナの緋色の眼からは、静かな雨のように、ぼろぼろと涙が出るのだ。
髪も頬も服も泥だらけで、お世辞にもいつものように美しく愛らしいとは言えないその姿。
ただ、それなのにクリフトの心は妙に掻き乱されていく。雨の中の仔猫のように、頬を手のひらにすり寄せながら、アリーナは、ぼろぼろと泣くことをやめない。

「……何が起こったのか、私にはよくわかりませんが」

彼はひとつ、嘘をついた。
本当は魔族であることが覚醒し、彼の中の人間の血が耐えられず、倒れたに過ぎない。

「もう、大丈夫ですから」

ぼろぼろと泣きっぱなしのアリーナの髪の毛を、そっと手で梳かすと、彼女はようやく口を開いた。

「ごめん、ごめんね。クリフト。苦しかったよね、ずっと高い熱が出ていて、うなされて……。お薬、取りに行ったけど、私は取れなかった、ごめんなさい」

クリフトは思った。
さっきから違和感があったのだ。
アリーナに、というよりは自分に。
---彼女は、こんなに可愛かっただろうか。

「ここにいる…あ、あそこにいる、アルディさんたちがお薬を取ってきてくれたの」
「目ぇ覚めたかー?」

火のついていない煙草を片手に、ひょいと覗き込んできたのは、これまた泥だらけの若い男だった。わかることは見かけと言葉によらず強いということと、これまた見かけによらず、信頼に値しそうな人物である、ということと、重く暗い闇を背負っていそうなことだった。

「ありがとうございます、なんとお礼を申し上げたらいいか……」
「あー、いいっすそういうの。そこにいる爺さんがこの世の終わりかってくらい困ってたから、なんとなーく手助けさせてもらったってーか……。もしお礼くれるなら、煙草と酒奢って」
「私はクリフト。クリフト・バーンスタインです。お酒なら、お好きなものを何本でも私の名前で買ってください。煙草は…不勉強なもので」
「冗談で言ったのに、名前で買えるとかすごくね? 俺、アルディ。アルディ・レウァール。色々あって旅してる」

髪の毛を梳かし、顔の泥を拭き取ったアリーナが、改めてアルディに恭しく挨拶をした。

「挨拶とお礼が遅れましたことをお詫び申し上げますわ。わたくし、アリーナ・フォン・ローゼンバームと申します。訳ありなのは同じなようですわね。私たちはサントハイムの城が無人になってしまった事件を追うべく、クリフトとブライとで、デスピサロを追ってますの」

アルディの顔色が一気に変わった。

「そんじゃあさいならってワケにはいかなくなりそうだな、俺が探してるのもソイツだ」
「世界は狭いみたいじゃな」
「どうしよう、ご一緒させてもらえたらすごく頼りになるんだけど……」
「おう、構わんよ。ここにいるやつらは、あそこにいる太っちょのトルネコ除いて、皆んな訳ありだ」

マッチを擦ってパイプに火をつけようとしていたトルネコと呼ばれた男は、心外な! 私の旅の理由は訳ありも訳ありですよ! と胸を張った。

「私、マーニャ・ミュール。一応踊り子を酒場でやってたり。こっちは妹のミネア・ミュールよ。彼女は占い師。……時々、運命とか変なこと言うかも知れないけど、職業柄だから許してね?」

煌びやかで姉御気質の女性が、クリフトに握手を求め、私もお酒と煙草奢って欲しいなー? と囁いた。

「構いませんが……」
「やった! ベネフィクトコンフィの24年物ォ!」
「構いませんが、26年物の方が美味しくないですか?」
「……やだ、お兄さんったら、坊さんの癖に舌肥えてる。気前もいいし、お金持ちっぽいし、いまは顔色悪いけど、よく見たら……って、よく見なくても超男前じゃない」

マーニャと名乗った女は、まじまじとクリフトの顔を覗き込み、これなら年下で坊さんでもイケるかもしれない、と言い出した。

「ちょっと姉さん! すみません、すぐコレなんです。アルディにもこうだったし。だからモテないんでしょ、姉さん」
「カッコいい男の人は占有じゃなくて、みんなで共有されるべきなのよ」
「……ダメです」

そこにキッパリと言い切ったのがアリーナ。

「お姫さま占有だった? ごめんなさい」
「ちがっ……違うけど、ただの幼なじみだけど、だ、だめ!」
「私、可愛い女の子も大好きー」
「姉さん! 相手は王女さまよ!」
「これからは仲間だもーん!」

クリフトは、初めての感覚に混乱しつつあった。姫さまはこんなに可愛かったか? そして何故いま、そんなことを思う必要があるのか。自分の中に土足で入り込まれるような、それでいて全く嫌ではないこの感覚はなんなのか。

それでいて、後ろから冷静な自分が自分を見下ろしながら、嘲笑っているような気持ちすらしてくる。
たとえ自分が全てを投げ出し捧げたとしても、決して誰からも愛されることはない、と。
だから、唐突に投げられたアルディの質問にも即座に答えることは出来なかった。

「サントハイムって人少ねぇの?」
「……は?」
「出逢ってすぐのヤツに、恋人かなんかと勘違いされるほど、近い歳の野郎と王女さまがさー、一緒に旅してんの、フツーに考えておかしくね?」
「悪い虫が、つかないようにする為ですよ。多分。実際、私は姫さまにとって無害であるように、常日頃から心掛けていますから」
「そっかー。さっきなんか、彼女ボロ泣きしてたじゃん? 俺にはわからん」
「私にも……分かりかねます」

クリフトは不思議だった。
何故姫さまは自分の為に泣いたのか。
自分の生死の為に泣いたのか?
ならば。
……いや、わからない。

「分からないことだらけです」
「そっかー、これからよろしくな?」
「よろしくお願いします」

クリフトにとって、唯一無二の親友となる男と一緒にやってきたのは、身体の半分を乗っ取られたような、奇妙な感覚だった。

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